まぶしがりや

2014-04-16

5話を見返していたら自分が覚えていた以上に二人の仲が良かったので仲の良い犬蛇を目指しましたがやっぱりCP要素は薄いです。


 放課後の本能字学園。生徒会室には窓も何もないので、時間の流れは時計の示す数値を通してしか知ることができない。

 いつもより早く仕事を終えて帰路についた犬牟田宝火は、ほんの少し前までならとうに日が暮れている時間帯にも関わらず、未だ空が明るいことに気付いた。薄明りに慣れた目にはやや傾いた日差しさえ眩しく、思わず目を細める。

 季節の移ろいに心を動かすような機微も感傷も、突き詰めてしまえば脳内で分泌される化学物質の作用に拠るもの。客観的に観測した事実に基づくデータ解析には、まさしく無用の長物だ。

 だがそういった自らの信条とは違うところで彼は、自身がハッキングによってリボックス社の株価を暴落させたところを鬼龍院皐月によって見出されたあの夜から、随分と時間が経ち、また随分と遠くまで来たものだと、わずかばかりの感慨が胸に浮かぶのを感じていた。

 そんな感傷の理由を自問するよりも先に、無星生徒の間では「お金持ち専用」と形容されるロープウェイ乗り場へと歩みを進めていると見慣れたシャコー帽を被った少女が自分と同じ方向へと歩いているのを目線の先に捉えた。

 恐らく文化部の見回りを終えたところなのだろう。少しだけ足取りを緩めた。歩幅の違いのために、あえて急がずともすぐに追いついてしまう。隣に並ぶまであと三歩、というところで、彼女は振り返りざまに口を開いた。

「人の後をつけて、どういうつもり?」

 そう言う蛇崩乃音の声色には、耳にすればすぐにそれとわかる棘があった。だけど、ジロリとこちらの顔を見上げる彼女の目に宿った、幼い子どものような悪戯っぽい色もまた彼から見れば明白で、思わず長い襟の下に笑みを浮かべた。

 初めて会った時端末に打ち込んだ彼女のデータは、皐月様以外の人間は誰も彼もをその毒牙にかけようとするおっかない少女、という内容だった。

 その本質は今でも変わってはいない。恐らく彼女は生来、口を開くと憎まれ口を叩かずにはいられない性質なのだろう、というのが彼の理解である。

 だがそれは彼女が皐月以外の人間を憎み払っているからではなく、また小柄な体躯を守るための理論武装でもなく(そんなことをしなくても、彼女はそこいらの男子生徒より輪をかけて強い)、一種のゲームのようなものとして、この言葉遊びを楽しんでいるように彼には思われた。

「どうもしないさ、君の家がどこにあるかなんて俺はとっくに把握してるし、君に想いを寄せる男子生徒に情報を売りつけたところで、彼らは三ツ星居住区に立ち入ることすらできないんだからね」

「よくもそんな下衆な発想が出てくるものだわ。一度殺してやるから生まれ変わってその腐りきった根性を新品に取り替えてもらいなさいよ」

「これはこれは、蛇崩乃音様直々に手を下していただけるなんて、君のファンが聞いたら羨望のあまり卒倒してしまいそうだ」

「やめてよ、好きでもない輩に好意を抱かれたって気味が悪いだけなんだから」

「蛇崩は追いかけられるよりも追いかけるのが好み、と。データに加えさせてもらうよ」

「そんなことしたらあんたの大事なパソコンを情報戦略部室諸共吹き飛ばすわよ」

「おお怖い」

 帽子のツバに隠れて見えない彼女の顔がむくれていることは、わざわざ覗き込んで確認するまでもなく想像できた。そうしたらそうしたで面白い反応が返ってきそうなものだが。

 そんなことを思う間に、二人はロープウェイ乗り場へ辿り着いた。

 ロープウェイに乗ることを許されているのは広い学園の中でもほんの僅かな人数だけなので、そういえば誰かと相席するとは思ってもみなかったと犬牟田が逡巡する。蛇崩は何食わぬ様子で乗り込み、赤いベルベットの敷かれた座席に腰掛ける。「乗らないの?」と問いかけるような彼女の視線に促され、まあそういうものかと自らを納得させた。

「私、この時間のロープウェイって好きなのよね」

 言いながら、動き出したロープウェイの中で立ち上がった蛇崩は窓の留め金へ手を伸ばす。先程までの毒舌はどこへやら、彼女はすっかり上機嫌になっていた。何となしに所在なさを感じていた犬牟田は、彼女の方をちらと見やり、「ふうん」とだけ相槌を打つ。

 意に介した様子もなく蛇崩は窓ガラスを押し上げると、窓枠から顔を出した。

「ねえ見て、すごく綺麗」

 向かい合って座っていたのを、蛇崩の横に座りなおす。本能町は海に浮かんでいるので、片方の窓からは学園とそれを支えるように麓に連なる街並みを、もう一方の窓からは海を見渡すことができる。それは毎日ロープウェイを利用している犬牟田が既に知るところであったが、彼女の指差す先を見ると、眼下には夕陽を受けて茜色に染まった海が広がっており、水平線はきらきらと輝いていた。

「水面に対して太陽光が水平に近い角度で差し込むから、全反射を起こして海が夕焼けと同じ色に染まっているように見えるんだね。幸い今日は風も少なくて、波が穏やかだからちょうど鏡のように……」

「もう、うるさいわね。犬くんは黙って目の前の美しい景色に浸るような情緒も持ち合わせてないの?」

 犬牟田の講釈を遮り、蛇崩が不満を漏らす。

「パソコンばっか見てるから、そんなに頭が硬くなっちゃうのよ。少しは曇りのない眼で世の中を眺めてみたら?メガネくん」

「眼鏡は関係ないだろう」

「どうかしら、それちょっと取ってみなさいよ」

 止める間もなく、蛇崩は彼の顔から眼鏡を奪い取った。「返せよ」という不平は聞き入れられず、ぐいと頭を掴まれ、無理やり窓へと首が突き出される。

 ぼやけた視界には水面と空の境界がわからなくなり、夕焼けの橙色に紅紫がかった雲や水の藍色が絵具のように混ざり合って、そこに無数の光の粒の大小が撒き散らされたようにちらちらと輝きを放っている。その光景は、先程眼鏡を通して見た景色以上に非現実感を増し、犬牟田は素直に綺麗だという感想を抱く。

 蛇崩の手が離れたので姿勢をもとに戻した。薄目で読み取った彼女の口元には満足気な笑みが浮かべられていた。

 気が済んだのか蛇崩は今度は手にしている犬牟田の眼鏡に光を透かしてみたりして遊んでいる。ロープウェイは道半ばを過ぎたところだろうか。

 きゃっきゃとはしゃぐ蛇崩の様子に犬牟田は、ふと彼女はこんなによく笑う人間だっただろうかと自問する。それも、彼女の敬愛する皐月様以外の人に対して。そんな違和感の正体について思考を巡らすより先に、脳裏に浮かんだ疑問が、口をついて出てきてしまった。

「今日は、皐月様の話はしないんだね?」

「へ?」

 不意に投げかけられた疑問に、蛇崩は目と口を丸く開いてこちらを見た。犬牟田の脳裏に「毒牙を抜かれた蛇」という言葉が過った。だがそんな表情は一瞬のうちに絶ち消えて、彼女は眉を顰めて答える。

「そういえば、そうかもね。でも私はいつだってどこにいたって、皐月ちゃんのことは手に取るようにわかるんだから」

「付き合いの長さが違うから?」

「……わかってるじゃない」

 それきり、蛇崩は口を塞いでしまった。考えを読み取ろうとしても、眼鏡は未だ彼女の手の中でもてあそばれているし、ちょうど沈みかけた陽の光によって自分の影が彼女に重なる形となってしまい、表情を窺い知ることができなくなってしまった。

 自分でも、なんでそんなことを尋ねたのかわからなかった。これでは、まるで皐月様相手に嫉妬しているみたいだ。どうかしてるのはきっと彼女ではなく、自分の方なのだろう。そもそもこうして彼女と二人でロープウェイに乗り合わせていること自体、少し前の自分なら有り得ないことなのだ。拒む理由ならいくつでも思いついたはずなのに。

 先程とは一転して息が詰まりそうな沈黙は、突然吹き付けた強風によって破られた。

 ロープウェイの車体が大きく揺さぶられ、体のバランスを失った蛇崩が小さく悲鳴を上げる。

 犬牟田は咄嗟に、椅子から落ちそうになった彼女の腕を掴んだ。握りしめた彼女の腕は細く、指に込められた力を強めたら、簡単に折れてしまうようにさえ思えた。

「……放してよ」

 我に返って蛇崩の腕を解放してやる。小さく「ありがと」と呟き、下を向いてしまった蛇崩の顔はやはり見えない。

 彼女が今、どんな表情をしているのか。理由もなく犬牟田は、確かめたい衝動に駆られた。

「……眼鏡」

「は?」

「君が持っているその眼鏡、返してくれないか」

 ああ、と蛇崩は犬牟田に向き直ると、眼鏡のつるを彼の耳にかけてやる。夕闇を縫う風が水色の髪を揺らし、彼女の指に触れる。

 犬牟田が目を開くと、眼前にある蛇崩の顔は、決まり悪そうに目線を逸らす。その頬は、薄暗闇の中でもわかるほど、赤くなっていた。

 そろそろと自分の顔から離れていく蛇崩の両手を犬牟田は、自らの両手で捕まえた。

「ちょっ……何?!」

 蛇崩の顔が、みるみるうちに赤みを増していく。その視線はまっすぐに犬牟田へ向けられていた。

 その光景に犬牟田は、自分の中で何かがストンと落ちる音を聞いた。

 それぞれが前と違う人間になってしまったのではなく。お互いの間に置いていた距離が、いつしか言葉を交わし、ともに時間を過ごすことが心地良いと感じる程に、縮まっていたのだ。自分の本心を隠すための理論武装に目が曇ってしまっていて、こんなに近づいていることに気付かずにいたのだろう。

 きっと、広い世界の中から鬼龍院皐月が自分を見出したのと同じように。感情とか、直観とか。自分の中にひた隠しにしていた、もう一人の自分とやらを、このまっすぐな、子どものような瞳を持った少女に見つけられてしまったのだ。

 参ったな、と犬牟田は思い、ふふと笑みを零す。

「ちょっと!何一人で笑ってんのよ気持ち悪い!」

 赤面したままそう文句を垂れる彼女の様子がおかしくて、くすくす笑いが止まらない。蛇崩は恨みがましい眼で犬牟田を見上げつつ、唇を曲げて「うう……」と唸る。

 いつの間にかロープウェイは三ツ星の居住区まで辿り着いていた。犬牟田は、蛇崩の手を掴んでいた自らの両手を放してやり、停車ボタンを押す。

「じゃあ、俺はここで降りるから」

「……」

「キスでもされると思った?」

「なっ、あんたねえ……!」

 また明日、と手を振る犬牟田の背中に向かって叫ぼうにも、上手く言葉を紡ぐことができない。

「なんなのよ……」

 ロープウェイは、蛇崩一人を乗せてまた動き出した。自宅まではあと停留所一つ分。

 彼は何を思って皐月の名前を出し、何を思って自分の手を掴んだのだろう。……あの薄緑色の鋭い目は、何を見抜いたのだろう。

 犬牟田の手に掴まれた時に自らの手に伝わったぬくもりが、冷たい夕風に当てられ和らいでいく。赤く染まった頬に宿った熱は、まだ収まりそうになかった。

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